映画「そしてイスラの土となる~日系キューバ移民の記録」、100歳の笑顔と故郷への想い

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日本の政府、企業の支援とともに建立されたハバナの日系人墓地(撮影:斉藤真紀子)

「快活で気品があり、礼儀正しい」

キューバの青年の島(イスラ・デ・フベントゥ)にある老人ホームで、介護士さんたちが口ぐちに人柄をたたえていたのは、キューバに渡った日本人移民一世で、最後の生存者だった島津三一郎さんでした。

2022年12月、東京ドキュメンタリー映画祭で「そしてイスラの土となる~日系キューバ移民の記録」を鑑賞したとき、私はすっかり、この映画に登場する島津三一郎さんに、心をつかまれてしまいました。(予告編はこちら

はじける笑顔、昔覚えた軍歌を大きな声で歌い、故郷の記憶を鮮明にたどる。その様子は100歳(当時)とは思えないほど、バイタリティと輝きにあふれていたのです。

日本に帰ることなく

20歳でキューバに渡ってから、すいかを栽培するなど農業を続け、それからは日本に帰ることなく、結婚はせず、晩年は青年の島にある老人ホームに入り、108歳でこの世を去った、島津三一郎さん。

日本人移民の一世は、大変な状況を生き抜いてきたと聞いていたからこそ、島津三一郎さんの朗らかさや、うらみもつらみもなく人生を振り返る姿が、私にとっては意外だったからかもしれません。

あるいは、大きな山をたくさん乗り越えてきたからこそ、今を最大限に楽しんで生きることができたのでしょうか。

革命でどう人生が変化したか

キューバへの日本人移民は、世界的に砂糖需要が高まったのを背景に1900年ごろから始まり、1920年代が多かったといわれます。

ところが、酷暑でのさとうきびの栽培は体力的にきつく、日本人移民はキューバ各地に散らばり、ほかの農作物の栽培をする、商店を営む、庭師になるなど、それぞれの道を歩んだといわれています。

第二次世界大戦中は、日本人移民の男性たちが集められて、青年の島にある強制収容施設に入れられたこともありました。

映画では、「1959年のキューバ革命でどう人生が変化したか」という点にもスポットを当てています。

せっかく広げた農地を「農地改革」によって縮小せざるを得なくなった人もいれば、それまでは貧しかったけれど子ども(日系二世)は無料で教育を受けられるようになってありがたかったという人もいました。

日系人へのリスペクト

日系二世で日本人連絡会会長のフランシスコ・ミヤサカさんは、「私はキューバ人です」と断りつつも、日本人移民は勤勉で、コミュニティでの信頼感を得て、キューバでリスペクトされる存在であることから、「日系人のルーツを誇りにしている」と話していました。

この映画は、1990年代のソ連崩壊後、キューバが困窮していた時期に、日本キューバ連帯委員会(CUBAPON)が青年の島を訪れてキューバの日系人と交流が始まったのをきっかけに、製作が始まりました。

しかし、鈴木伊織監督によると、キューバの日本人移民の子孫はいまや四世が多数を占めており、「移民一世の情報や資料は少なかった」とのことです。

貴重な映像の記録を集めてきた鈴木伊織監督は、「日本人移民が戦時中に強制収容所に入っていたとき、配偶者の女性や子どもたちはどのように過ごしていたのか」、「日本人移民はキューバ革命に参加して戦ったのか」について、これからも調査を続けていきたいと話していました。

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【作品情報】
クバポン-CUBAPON(日本キューバ連帯委員会)
「そしてイスラの土になる~日系キューバ移民の記録」はこちら

Author Profile

斉藤 真紀子
斉藤 真紀子
キューバ倶楽部編集長、ライター。ニューヨークでサルサのレッスンを受けたのをきっかけに、2000年に初めて訪れたキューバが心のふるさとに。
旅をするたびもっと知りたくなるキューバを訪れ、AERA、東洋経済オンライン、TRANSIT、ラティーナ、カモメの本棚、独立メディア塾ほか多数の媒体で記事を執筆。
2015年にキューバの現地の様子や魅力を伝える「キューバ倶楽部」をスタート、旅の情報交換や勉強会、講演会などのイベントも運営。
★キューバのエッセンスを生活に取り入れる日々をnote(https://note.com/makizoo)に綴る。
★Twitter: @cubaclub98 ★ Instagram: @cubaclub98
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